『仁の人』

会津大好きUKYOです。
東山温泉近く、松平墓所を皆さんご存知でしょうか?
会津藩の歴代藩主が眠る史跡です。

霊感の強いの私の友人は、パワースポットに行くと、
「心にふっと風が吹く」と言いました。
私はその“風”を感じたことのない愚鈍な人間ですが、きっとそんな“風”が吹くのはこの場所のような所ではないかと思うような、凛とした空気に包まれた静かで心安らぐ場所です。

え?初代は何で葬られていないの?
思いますよね?
実は私も最初、そう思って・・・調べてみました。

会津藩、初代藩主、保科正之公の墓所は、猪苗代湖が一望できる土津神社にあります。
大きな白い鳥居をくぐり、境内には大きな亀石に載った石碑があり、春には桜、夏には涼しげな深い緑、秋は紅葉が紅の灯りのように色づき、冬には踏み入るのをためらうほどの美しい雪におおわれます。

会津藩、二代藩主保科正経公から幕末の九代藩主容保公までが葬られています。

その奥の本殿のわき道の石畳の階段を登っていくとひっそりと、それでいて荘厳と建っている墓石が、会津藩祖、保科正之公のお墓です。

保科正之公、実は、徳川家康の孫にあたります。
徳川家康の孫?家光と忠長だけじゃないの?
いえいえ、この保科正之公、まぎれもなく、徳川家康の子、秀忠のご落胤。
が、しかし、正之(幼名、幸松)公は、江戸城では育てられず、色々訳あって、武田信玄の家臣であった高遠藩主の保科正光の
養子として育ちます。
「いろいろ訳あって…」気になりますね。
将軍の子なのに・・・。

三代将軍、家光と違っていたのはその母。
正之公のお母さんは、秀忠の正室、お江与の方ではなく、秀忠に見初められたお静さんと言う、秀忠の乳母の元で働く女性でした。

あれ?秀忠公は側室いなかったのじゃ?

それが、居たのです。

あまり世に知られていないのは、きっと恐妻家だったから、でしょうか・・・。
何せ、お静さんが秀忠の子を身ごもったと知るや否や、
「殿がよそに子供を作ったと?ムッキー!」
刺客を差し向けるほどのご立腹。
結局、父、秀忠と生涯江戸城では育てられず、色々縁あって、武田信玄の
家臣であった高遠藩主の保科正光の養子として育ちます。
それで、徳川家の血筋なのに「保科」の姓なのですね。

この正之公、異母兄弟の家光公に取り立てられ、
「我こそ、徳川家の血筋」と威張ることなく、飽くまで、高遠藩主、保科正之として、家光公に仕えます。その謙虚さに接した家光は、正之公に高遠藩3万石から出羽山形藩20万石に国替え、次に、陸奥会津藩23万石に国替えと、弟を重要なポストを与えて行きます。
正之公はそれでも常に驕ることなく、高遠藩で培った善政を施し、民に愛される名君となります。

その、慎ましくBenevolenceとも言える姿勢を見込んだ家光は、死に際し、まだ幼い我が子、家綱の後見人として、家綱公を託します。

まだ11歳の幼い将軍の後見人、奸臣であれば、「しめしめ・・・」
と自分が思うがままにせんと欲しても可笑しくない状況です。
けれど、正之公、自分を弟と認め、取り立ててくれたその恩をキッチリと返します。
只管、家綱公に帝王学を示し、国元の会津藩は、信頼できる
家臣に任せ、それから20年近く、家綱を支え続けます。

盤石の江戸幕府は、3代でその礎を築いたと言われます。
その次の4代目、大事です。
その4代、家綱。正之公をはじめ家臣に恵まれ、名君と呼ばれるまでに成長します。

正之公を想う時、その精神を水面に映し出すが如くひた向きな会津をいつも想いす。
私が会津を好きになった原点は、ここにあるような気がします。