『義の人』

猪苗代湖に今日も静かな風が吹いている。
松の木陰にも、涼やかな葉音が木洩れ陽のように視える。その人の名を呼ぶ声が視えるように。

「私がいつもその方に私の言うことをを書き留めさせているわけが解るか」
「いえ」
「いずれ、右京、その方を家老として取り立てるつもりでおる」
「殿…」
「励めよ」

会津藩祖 保科正之公は、徳川家光から、次期将軍 家綱の後見を託され、領土の会津を離れること23年。その間、藩主不在の藩政を支えたのが、城代 保科正近、北原光次、そして正之公が父、秀忠から命名された幸松と名乗っていた頃から小姓として仕えた右京こと田中三郎兵衛正玄(たなかさぶろべえまさはる)。

 数奇な運命で、将軍 徳川秀忠の実子でありながら、父である秀忠と親子の名乗りをすることも、葵の御紋をつけることもなかった正之公。
 武田信玄の娘である見性院に育てられ、7歳で見性院が見込んだ旧武田家家臣、高遠藩主、保科正光の養子となった正之公(幼名:幸松)が2歳年下の右京と出会ったのは、春には城のある山が桜で覆われるほどの高遠だった。
  武田家に縁が深く、知恵ものであった右京と幸松は、気が合い、共に文武を学び修練する。

 幸松が19歳の時、初めて父、秀忠と対面する機会があった。
それは、養父、正光はじめ、側近たちにとっても念願の出来事。
対面を終えた幸松に右京は訊ねた。
「秀忠公と何かお話になられましたか?」
「いや、お顔を拝見しただけだ」
「・・・左様でございますか・・・」
多くを語らない幸松公に、幼い頃から近くで見てきた右京はかける言葉が見つからなかった。

 それから2年、秀忠と幸松の父子の名乗りを見届けることなく、養父、正光が死去。
幸松は名を保科正之と改め、高遠三万石の藩主を継ぐ。
同じく右京も、名を田中三郎兵衛正玄と改めた。
 その翌年、秀忠死去。
 次の将軍、家光は、ひょんなことから保科正之が弟であることを知る。
 無欲で、ただの小藩の藩主である振舞の正之を、家光は観察しているうち、その有能さに気づき、幕政に関わらせるようになる。
正光に育成された正之は、民政の視点を持ち、徳川三代の基盤を築くのに大きな力となっていく。
やがて、高遠三万石から、山形20万石、そして会津40万石と、取り立てられていく。
 江戸で手腕を振るう正之と、一方、藩主不在の国元では、正之公からの便りに従い、家臣たちが力を合わせて藩政と民を守っていた。

 寒さ厳しい冬と不作が続けば、年貢を払うのがやっとの農民は、すぐに食えずに飢えてしまう。 間引きと言われる子減らしも多かった。
そんな人々の暮らしに心を痛めた右京たちの元に、正之から文が届く。
「社倉制度を用いよ」
社倉とは、豊作の年の穀物を貯蔵し飢饉などの時に活用するために備蓄する事業。
正之は、他には見ないその制度を実施せよというのだった。
「それならば、民の苦しい生活を救うことができます。殿の知恵は素晴らしいです」
と感服の便りをする右京に正之から文が届く
「何を申す、私が考えたのではない。その方が、間引きや飢饉から民をどうすれば救えるか言ったので、策を考えたまで」 「殿・・・」   

 江戸と会津で切磋琢磨する正之と正玄。
 兄、家光が病に倒れ、最期に、まだ幼い跡取り家綱の後見を正之に託した。
家光の遺言に従い、まだ11歳と若い将軍、家綱を陰になり支え続けた。
そしてその藩主を、会津を守ることで家臣たちが支えていた。

  そして23年…
家綱も、正之公はじめ優れた側近に恵まれ、賢君に成長し、正之公も漸く致仕(役を退くこと)を願い出で、赦される。
久しぶりに会津に戻った藩主を、城代の田中正玄はじめ、皆がこぞって悦び迎える。
 まるで、正之公の帰りに肩の荷を下ろしたように、田中正玄は倒れる。
二度目に倒れた時、田中正玄は燃え尽きたように、もう起き上がることはなかった。

 土津神社の大きな白い鳥居を真正面に見て、その右手の坂に向かって進み、少し歩くと、右に水の音がして、細い道がのびている。そこを歩き5分ほど行くと、右手にテニスコートのようなネットに囲まれたコートがあり、手前に「田中正玄の墓」の案内板が控えめに立つ。

その道を350年近い昔、正之公が目が不自由になっていた体を押して、参った。

そして、墓の近くの松に手を置き、「余がみまかうよりも、民のためには悲しむべきことだ」と心を痛めた。「三郎兵衛が余に仕えて46年、ただの一度も私意を挟む行いがなかった。江戸にて心置き無く働くことが出来たのは、三郎兵衛によるところが大きい」と涙した。

耳元でまた、松の声が聴こえる。
「殿…次は何をいたしましょう」

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