『礼の人』

会津大好きUKYOです。

東京青山霊園。
大久保利通や犬養毅など、そうそうたる顔ぶれの お墓が建ち並ぶ一角にその人が眠っています。

会津藩校・日新館で成績優秀で飛び級して2年も早く卒業。
その後、江戸で全国の秀才たちが集まる昌平坂学問所(昌平黌)へ。
昌平黌と言えば、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠など日本中の優秀な頭脳があつまった学問所。
そこで誰も布団で寝ているところを見たことがないほど、コツコツ勉強し、舎長にまでなった逸材です。

その人の名は、秋月悌次郎、後の秋月胤永(かずひさ)先生。

(秋月悌二郎の墓)

私は「礼」の文字をみるたびに、私は秋月先生を思い出します。
「礼」と言う文字は、「禮」の略字で、決して人を象った象形文字ではないのに、この文字の形を見ると、どうも、人がキチンと45度に体を折って頭を下げているようなイメージをいつも受けます。
そして、その形から、いつも連想されるのが秋月先生です。

会津藩から江戸に出て、この学び舎で、秋月先生は沢山の貴重な時間を過ごし、多くの出会いもありました。
そこで培った学問と人脈などを、会津藩に帰って活かし外交担当の要職に就きます。
やがて、戊辰戦争に敗れた時、官軍との開城交渉など、敗戦の後始末の中にも、身を粉にしコツコツと懸命に働く 秋月先生がいました。

そして、敗戦後、会津戦争の責を取り、終身禁固刑。猪苗代で謹慎。
「行くに輿無く 帰るに家無し」と北越潜行の詩を詠みました
(会津の三絶句のひとつ)。
失意の中、それでも、これからの会津藩の未来を案じます。

そんな折、旧友、長州藩の奥平謙輔から手紙が届きます。
「会津藩士は実によく戦った。心痛はいかばかりかお察しする。これまでのことはこれまでのこと、これから先は、今まで徳川に尽くしてきたように、今度は、朝廷につくしてはくれないだろうか」

会津と長州、お互い様々な思いを超えて差し伸べられたその手に秋月先生は会津の未来を託そうと思います。
会津の未来とは、前途ある若者、山川健次郎でした。
奥平謙輔は、山川健次郎に学問の出来る環境を与えます。
そこでコツコツ努力した山川健次郎。
その後、秋月先生の想い、多くの会津の想いを一心に背負い、アメリカのイエール大学で懸命に学んだ山川健次郎は、戊辰戦争に敗戦した会津藩出身ながら、東京大学総長、京都大学総長に就任するまでに成ります。

当の秋月先生も、晩年、熊本第五高等学校の教諭となります。

猪苗代の湖畔に立ち、秋月先生の生涯を想う時、
「また勉強ばっかりして・・・」と奥平謙輔の笑い交じりの声が聞こえてくるような気がしました。