『智の人』

会津大好きUKYOです。

歴代、家老の家柄で、イケメン・切れ者の兄とその兄に似た頭脳明晰な弟。そして、まだ開国したばかりのこの国で、数少ない帰国子女の美人な妹。そんな華麗なる一族が会津の山川家です。

さぞかし、ずっと裕福な暮らしをしているのだろう、そう思いますよね。

が、しかしこの山川家、気が付くといつもカツカツ。

それはお金持ちの浪費家ゆえ?—ノンノン。

ひょっとして、ものすごいグルメでエンゲル係数が異常に高かったとか?—ノンノン。

会津藩は、子供のころから什の掟をたたきこまれ、武士となれば、藩祖 保科正之の時代より、会津家訓十五箇条があります。 そして「ならぬことはならぬのです」と厳しく育てられるお土地柄。

決して贅沢三昧するような藩風ではありません。

会津藩、そして藩の人々、ただただ、その為に山川大蔵は生きた人でした。

父を早くに亡くし、家督を継いだ大蔵(後の浩)は、 戊辰戦争の際、敵に包囲された城に入城するのが不可能と思われた中、 地元のお祭り「彼岸獅子」という獅子舞をしながら、敵を欺き、自らの部隊を無血で入城 させた知恵者です。

(会津彼岸獅子)

戊辰戦争の戦火が激しくなり、会津藩は近代兵器の前になす術もなく、要所で負けが続きます。 そんな中、山川大蔵が守っていた日光口は激しく反撃。特に山川大蔵が駆けつけてからの会津藩の猛攻撃に、敵の土佐藩の谷干城(たにたてき) が、指揮官は誰だと確認するほどでした。

戊辰戦争に敗れ、斗南藩(現青森県の東部)の権大参事となり、極寒のやせた土地で、 多くの会津藩の人たちと共に移住。 そこでの人々の生活は、食べるものがない困窮した暮らしを送ります。 やがて、廃藩置県後、青森県の役人となりますが、その頃、山川(大蔵改め)浩を探す中央の要人がいました。

その人こそ、土佐藩の谷干城。あの戊辰戦争の時、日光口で戦った相手の将でした。

谷干城は、山川浩の有能さを買い、陸軍に推挙します。

ふたりの友情は。やがて西南戦争の激戦の中、狙撃され、重傷を負い熊本城に取り残された谷干城の隊を少数の軍で救います。そして、熊本城の敵からの包囲を解く先陣を切ったのが、山川浩でした。

陸軍に入ってまともな給料がもらえるようになっても、昔の会津藩の人たちが、山川浩を頼って家に絶え間なくやって来ます。

その人たちの面倒を見続けたのも、山川浩でした。

なので、生活は相変わらずカツカツ。

けれど、山川が面倒を見た若者の中には、やがて陸軍大将にまで上り詰める、柴五郎もいました。

柴五郎は、やがて、派遣された中国で義和団の乱に遭遇。

その類まれなる統率力で、鎮圧に貢献し、英国で高い称賛を浴びることになります。

その柴五郎が、陸軍士官学校に入学した時、我が子のことのように山川浩は喜んだといいます。

山川浩は、高等師範学校(後の東京教育大学)の校長などを経て、明治31年(1898年)、男爵に叙せられ、その後、亡くなりました。

東京の青山霊園に、山川浩と弟である山川健次郎(東京大学総長)のお墓があります。

同霊園にある、秋月悌二郎先生の墓地とは少し離れていますが、無骨そうにただ、名前だけ書かれた墓石は、ずっと真っすぐ生きてきた山川浩の人柄をそのまま映しているように建っています。

(青山霊園 山川浩の墓)

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